パーソナルツール
現在の場所: ホーム 泡盛百年古酒元年 泡盛で語る沖縄賛歌
« 2012年 2月 »
2月
12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
272829
urizn group

 urizntokyo

payao

izumizaki3

 

泡盛で語る沖縄賛歌

 

sannka1
sannka2上間 信久
index

第1話 親酒(アヒャー)と当間学校

“泡盛で語る琉球賛歌”は信久さんが1991年に書き上げたものです。泡盛百年古酒元年が発足したのが、1997年。
先輩達のこよなく泡盛を愛する熱い思いが、今日の“泡盛百年古酒元年”に繋がりました。
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。
 
 
 

第1話 親酒(アヒャー)と当間学校

 泡盛に親しみ始めた頃に、「当間学校」の話を聞いたことがある。戦後間もない頃、元首席の当間重剛氏を囲んだ青年壮士たちの飲み会。これを称して“当間学校”と呼んだらしい。

 沖縄に何かを還したいという氏の魂と大きな器量に魅かれて、沖縄の戦後をつくった各界各層の人物たちが参集し、着想を磨いたという。

 無類の泡盛党の氏のこと、メーカーや愛好家から手に入れたすごい古酒があったそうで、さぞや“学校”の議論も楽しかったに違いないと連想する次第。

 沖縄タイムスの先輩記者に聞いた話だが、アメリカ民政府時代、毎週のように開催されていたパーテ ィの席上でのエピソード……。
 氏は、アメリカ将校やその夫人らとスコッチやブランデーなどで形式的に乾杯したあと、ポケットにしのばせてきた自分の古酒を飲んでいたそうである。「どうして、おいしい世界の酒があるのに、わざわざ古酒を飲まれるのですか」と聞くと、「アメリカむんや飲まらん。これが世界一の酒だ」とサラリと答えられたらしい。

 その心を想うにつけ、今でも身が引き締まるのを感じる。泡盛が島グァと呼ばれ、船来品が崇拝されていた50年代のあの時代に、どうしてそんな表現ができたのかと。
泡盛メーカー脱帽と言った表現で、もっと氏の研究を深めて大いに活用しても良いと思う。

 このような一言ではあるが、その表現の中には“沖縄の誇り高き心”を失わない心意気と、良い古酒を育てている自信が満ち満ちている。こんな当間氏であったからこそ、人々が参集したのだろう。当間学校は、人を引きつける氏の強い吸引力を核にキラ星たちが集まり、良き泡盛を媒介にして各自の心意気が融合し、まろやかな空気に包まれたらしい。この中で“生徒たち”は何かを吸収し、巣立って行った。

 これはいわば当間というアヒャーから、質の良い親酒を分けてもらったようなものである。その後の卒業生の行動は、次のパターンが考えられる。

 
1、親酒を大事にして、自分なりにブレンドし、次世代に分けられる自分の親酒をつくった、
2、良質のアヒァーを自分だけで飲んでしまった、
3、大成する親酒とは知らず、そのまま放置して酸敗させてしまった、の三つである。
私たちの世代からすれば、大先輩にあたる“当間学校卒業生”の声がビンビン伝わって来ないのは残念でたまらない。
親から子へ、子から孫へ、家々の空気や伝統が伝わって行くには、源(もと)になるものが必要である。当間学校という親酒からおすそ分けをしてもらい自分なりのアヒァーをつくった人が、また、次の世代にも同じように源の親酒を語りながら夢を継ぐ。孫たちは、二代目の酒を大事にしながら三代目のアヒァーを育てていく・・・・。

 言い伝えによれば、ついこの間まで琉球には、清朝・乾隆年間の古酒があったという。二〇〇年ものの古酒が残っていたというのも、一代で飲み干さず、代々で継いで行くという美風、ならわしがあったからだと思う。いつの頃からか、このような美しいならわしが消えてしまったのか?研究の余地が残されているが、多分に精神的な心のゆとりよりも経済的なゆとりを大事にするようになった頃からだと思うが・・。

 いずれにしても、当間氏は、泡盛の中に宿る琉球の確かなスピリッツを見ていたと思う。この、“当間学校”でつくられたような気風ーー一人では飲み干さず、いいものは次の世代にも分かち与えるーーは、受け継がなければいけないだろう。もし、こんな人がいなければ、われわれの子孫は、琉球の先人たちが味わったような二〇〇年ものの古酒は、永久に手にすることができないのだから。

 ふるさとに残されていて、これから手を入れさえすれば大きく根を張ることができる美しいもの。その一つが古酒だと思う。古酒をつくるという“ならわし”の他にも埋もれているのがあるに違いない。それぞれが、それぞれのやり方で自分の琉球を発見し、編み出し、空気にしていく。こんな人たちの時代が来たと痛感するこの頃である。

 
当間 重剛
那覇市長を経て、1956年11月11日~1959年11月10日まで琉球政府の第2代行政主席

第2話 百年古酒を飲み干した将軍と松山王子尚順の選択

  太平洋戦争の末期。大本営は、アメリカ軍が台湾か沖縄に上陸すると想定。本土決戦を一日でも遅らせるとして、三十二軍を沖縄に配置した。軍司令部は、こともあろうに首里城の真下に設置された。数百年にわたって築き上げられて来た琉球王朝の文化・スピリッツが集約されている所にである。その意味は大きい。深く研究する必要があると思う。

 古来、泡盛は、首里城を中心にその周辺で造られてきた。そのため、古酒の量も首里城周辺に多く、良質なものが潤沢にあったのである。数百年ものの泡盛が眠る平和な丘に、ズカズカと軍人文化が入り、その結果、わが泡盛は悲劇的な結末を迎えることになる。

 泡盛をはじめとする琉球文化のコアを考える上で欠かせないものに、『松山王子尚順遺稿』がある。名薯である。このような本を残す作者のこと、氏の所有する古酒は磨き抜かれた極上のもので、世の羨望の的となる“逸品”であったという。残念なことに氏の家は軍司令部に近く、この逸品の話が長参謀長の耳に入ったらしい。ある泡盛通の先輩の話によると、長参謀長が尚順氏宅に立ち寄り、古酒を所望したらしい。氏にとっては粗末に扱えない。かと言って、賓客をもてあます様にもできない。とりあえず、三番手の古酒を差し上げたそうだが、それでも尚順氏の保有する古酒。あまりのウマさに病みつきになり、度々訪れては古酒を所望したという。恐らく、数多くの部下を引き連れての訪問だったのだろう。三番手、二番手の古酒は底をつき、とうとう極上のものを要求される。氏の極上の古酒は、いい親酒を持っていた人々たちから少しずつ譲り受け、年月を重ねて造り上げたもの。百年、二百年のエキスが入っている古酒を差し出す。古酒を造った数百年前の先人たちの話を酒肴に、和やかな気持ちを分け合いながら、風味するはずであった古酒を・・・・。尚順氏の心を思うとしのびないのである。

 この心中を察したのかどうか、将軍は、「生命の安全は軍が保証するから」と。かくして、百年以上は経った極上の古酒壷は空になり、尚順氏は軍と共に南部に移動。最後は将軍とも離れ離れになり、大渡で死亡したと伝えられている。

 尚順氏と同じレベルの古酒は、首里城周辺の旧家にはかなりあったと伝えられているが、今はほとんど残っていない。軍司令部があったために集中的に攻撃され、古酒を避難させる間もなかったという。数百年にわたって培われ、育てられてきた琉球のスピリッツは、徹底的に破壊され、首里の大地に霧と消えたのである。

 ゴルフと同じように、歴史に、「 もし・・であれば」「もし・・であったら」 はないのであるが、もし、首里城下に軍司令部が設置されず、将軍に百年ものを飲み干されていなければ、われわれにも世界に二つとないこの名酒を賞味するチャンスが巡ってきたかも知れない。百年のも、二百年ものの古酒の存在が、どれほど琉球のスピリッツを高め、今を刺激し豊にしたか計り知れないのに・・。こんなことを思うと、つくずく戦争の無残さを恨み、残念でたまらないのである。復元された首里城には、やはり、百年程度の古酒があったほうが似合う。しかし、戦争で一瞬のうちに歳月は失われ、今のわが県には、そんな古酒はふんだんにはない。

 尚順氏も、失われた古酒や首里城を連想しながら最後を迎えたのだろう。その意志を分けてもらい、古酒づくりをするのも悪くない。

 百年後の首里城で百年ものの古酒を、今度はそれこそ平和裏に、アジアや世界の友人たちと楽しむ孫たちの姿を連想して、今から準備をするのも愉快なことである。

尚 順
(コンサイス日本人名事典)
(日本の名門1000家)
1873(明治6)~1945(昭和20)
明治・大正期の沖縄の新聞人、男爵、貴族院議員
最後の琉球国王・尚泰と母の松川按司の四男
琉球最後の王子位であり、松山の名島を賜り松山王子を称した。
琉球は日本と中国(清国)とに使を送り、独自性を保っていたが、1872(M5)尚泰を琉球藩主に封じる。清国はこれを承認しなかったが、1879廃藩置県を強行され400年にわたる尚氏の沖縄支配は終わった。この問題が日清両国間の争点となり、日清戦争勃発。これに伴い翌年、父と共に7歳で上京。日清戦争で日本の勝利により沖縄は日本の領土となる。

*沖縄戦で没し、妻・尚真子(伊是名朝睦の長女)をはじめ、長男・尚謙、三男・尚信、四男・尚計、孫の尚忠昭や尚忠正らを亡くしている。
『松山王子 尚順遺稿』がある。

第3話 泡盛は琉球のスピリッツ

いい酒の文化を持っている民族は征服されない 世界を征服した国には必ず名酒がある。

この言葉は、二つとも奥行きがあり、味わい深い。「酒文化を持っているかいないかによって、民族の盛哀が決められたんですヨ」と、僕の友人の獣医。「そんな馬鹿なことがあってたまるか」と僕。「でもアイヌは酒の文化がなかったし、アメリカのインディアンだって、ハワイのカナカ族だってそうだったんでしょ?」。

もう十年近くなるが、最近、妙にこの言葉が頭を離れない。
日本の神話の世界で、スサノオノミコトが八岐のオロチを退治するくだり。オロチの強さに手を焼いたスサが編み出した方法は、八つの酒樽を用意して、酔わせて殺すというものであった。殺されたオロチを酒文化を持たなかった八つの、あるいは複数の部族と考えればつじつまが合うし、このような例は世界にもたくさんある。

酒の中の酒・蒸留酒が、その技術を確立したのは十四世紀初頭だとされている。それ以降の列強は、その技術を取り入れて磨きをかけ、独自の名酒を作った。スペインのシェリー酒、フランスのブランデー、大英帝国のスコッチ、ロシアのウォッカ、アメリカのバーボン等がしかりである。世界征服とまでは行かなくても、他民族へ大きな影響を行使したこれらの国の動きに、名酒たちは寄り添ってきた。

蒸留酒は、腐敗しない。いついかなる時でも、そのスピリッツのままで供することが可能である。蒸留酒文化を持たない国や民族は、その風味に酔わされ、虜(とりこ)になり、次第に自己喪失して行ったのではないか?
ひるがえって、わが琉球を見ると面白い。1619年、琉球王国には当時、東アジアでも名だたる名酒・泡盛があった。サツマの焼酎も上陸するにはしたが、泡盛は焼酎の元祖というスピリッツ故に、征服されることなく明治の世を謳歌する酒として残ったのである。

戦後は、アメリカのバーボンやスコッチ、ブランデーと世界のさまざまな名酒たちが上陸し 島グワー
と呼ばれ、不遇をかこつこの時期もあるにはあったが、不死鳥のように甦り、生き続け、ますます隆盛を極め始めている。一帯これは、なぜなのか?思うに、これは泡盛のパワーが秘められているからだと言わざる得ない。ふるさとに生まれ、育み磨き上げてきたものを愛する人々がいる。琉球の歴史をつくってきた人々の喜怒哀楽を呑み込んだ魂、スピリッツだからなのであろう。

泡盛が元気な姿をしている時は、沖縄も元気がある時と考えてよい。泡盛が伸び悩んでいる時は、自分を忘れかけた沖縄があるととらえたい。
泡盛は琉球のスピリッツ。支配や征服という野望をはね返し、融合に向かう琉球のスピリッツ。われわれを写す鏡なのである。
だから、ユメ!泡盛を粗末にしてはならない。それは自分自身を粗末に扱うことと一緒なのだと思うから。

 

第4話 琉球王朝の紋と泡盛

一つの円の中に、勾玉マークが三つ絡んでいる琉球王家の紋。
これは、何を意味しているのだろうか?

 泡盛流で解釈してみると、実に面白いものになる。泡盛を形成する三つの要素は、大きく分けて
1.蒸留法、
2.バラ麹、
3.黒麹である。
1.と2.は外来の技術であり、
3.は沖縄独特のものである。
つまり、外来の技術を沖縄のオリジナルなものとかけ合わせて、三つの巴にしてチャンプルーにし、一つの円=すばらしきものが誕生することを意味しているのではないか。と、こう解釈できるのである。
 

 しからば、一体誰が、この世にも不思議な黒麹を発見し、泡盛づくりに使うようになったのか?また、それはいつ頃のことなのか。

  さらに、蒸留法やバラ麹の技術はいつ頃、だれが・・・・。
次々と疑問がわいてくるが、このような初歩的な問いに対してわが研究陣は、「多分、琉球の大航海時代に、明や東南アジア諸国から、だれかが導入したのだろう。バラ麹は、日本本土に発達した手法だから、まぁ、薩摩の琉球入りと関係があるのではないだろうか。黒麹の発見も偶然だと思うヨ」と、まぁこういう風に、多分、○○だろうで済まされざるを得ない状況にある。これも文書類が焼かれたことや、今次大戦で貴重な記録が焼失したこともあるにはあるだろうが、沖縄の重要な産業の柱にもなる可能性があるわが泡盛にとっては、残念なことにであり、お粗末だと指摘せざるを得ない。
 

 それでは、この世にも不思議な黒麹と蒸留法、バラ麹の技術は、どのような形で完成をみるに至ったか?乏しい資料や取材の中からたくましく類推をしてみると面白い。アルコール蒸留法は、古代オリエントに発祥した錬金術が、時代と場所を変えて発展し、1310年、スペインで確立されたと言われている。この蒸留法が北ヨーロッパに広がってスコッチやブランデーとなり、東に流れてウォッカや中国の霧酒、泡盛となった。中国やシャムでは、同世紀の後半には蒸留法が確立されたと推量されることから、その伝播のスピードはすさまじいと言わなければならない。
 

 琉球の大航海時代の幕開けは、十四世紀の後半。明が成立したのをキッカケとしているので、交易の当初は珍品として輸入されていたのであろう。このことは「十五世紀の初め頃に、御物城に、強烈な度数の高い酒があった」という記録からも裏付けられる。
 

 しかし 製品を輸入するには、金がかかり過ぎる と考えるのは、古今東西を問わず常識であり、技術を導入した方が安上がりだと考えたとしても不思議ではない。おそらく、スペインから中国、シャムに至る伝播スピードを考慮に入れると、琉球への技術の導入は素早くなされただろう。輸入の時期と蒸留技術の確立との時期にそう大差はないと思われる。そう考えると、琉球における泡盛製造の開始は。1400年から遅くても1450年の間と指摘することが可能である。

 では、でんぷん質を糖化する麹は、何を使ったのか?発酵の方法は?酵母はどうであろうか?これは、あくまでも仮設であるが、技術導入の当初は、明やシャムで使われていたムチ麹を使い、麹菌もクモノスカビでったであろう。しかし、カビを使っているうちに、沖縄代表の黒麹菌が混入。次第に黒麹菌が勢力を増して、取って代わったのではないか。
この黒麹菌。沖縄の大気中に存在し、琉球だけにあった固有種である。その名も、「アスペルギルス・アワモリ」と格調高く、世界中で適用している学名なのである。泡盛を愛する諸氏は、自慢して良い。
いずれにしても、外国から導入したクモノスカビの麹と違って、黒麹で真っ黒になった麹を最初に見たわが先達。失敗したと思って、真っ青になったであろうことは、想像の難しくない。大切な原料の米や栗を無駄にはできない。まずは、酒になるかどうか?気を取り直しながら、蒸留したのだろう。
これが偶然にも大成功。以来、黒麹が主流になった・・・・。
このような試行錯誤をしながら取り組む先達がいたから、今の泡盛があるのだが、その人の名は記録にない。

 それでは、バラ麹はどう考えれば良いか?泡盛のルーツと推察される中国やタイの麹は、クモノスカビや酵母などを一緒に固めたお餅にようなモチ麹を使っている。しかし、泡盛はバラ麹である。これは、モチ麹を見たことがある人なら、麹を解くのはそう難しくない。モチ麹の場合は、お餅を砕くように、器にモチ麹を入れて、棒で突いて粉にしなけらばならない。それだけでも時間と労力がかかる。
粉にしたものを、さらに蒸し米にかけて発酵させるのである。当初は、それを続けていたのだろう。しかし、世は大航海時代の琉球である。李朝や堺との交易もしている。日本本土で発達していたバラ麹の技術も見た人がいたとしても不思議はない。麹そのものを蒸し米にバラまいて発酵させる技術ーバラ麹の手法に学んで琉球に技術が導入されたのだろう。従って、バラ麹は、蒸留法が沖縄で確立し、しばらくモチ麹の技法を使った後に導入されたものと類推され、その時期も比較的に新しいものと思われる。

 泡盛は、古代オリエントに発祥した錬金術と日本本土で発達したバラ麹の技法、この二つのものに琉球独自の黒麹菌が融合した、壮大な文化、人々の営みの結晶と言えるのである。

蒸留法とバラ麹の二つの外来の文化を大胆に導入し、琉球固有の黒麹を磨いて結合する。まさに琉球王朝の紋に象徴されるスピリッツ。三つの要素が交わり合うと安定した統一体ができ、円くおさまる。これはまさに、世界に通用するものであると。

 家紋

尚王家の家紋。
俗に(左御紋)と称している。

第5話 泡盛は飲むものではなく貯えるもの

 「泡盛は飲むものではなく、貯えるもの。」こう書くと怒られそうである。そういう自分も毎晩のように泡盛を楽しんでいるのだが、どうも飲むばかりではツマらなくなってきている。どこのメーカーのものは味がどうの、匂いがどうのというだけでは、物足りないのである。

 せめて、どこそこの三年もの、十年ものはどうの、今度新発売された二十年ものは・・・という会話ならまだ楽しい。もっと楽しい飲み方、会話はないかと議論しているうちに、ふと思い浮かんだのが、

 泡盛は、飲むものではなく、貯えるものである という言葉。

「毎日新酒ばかり飲んで、自分の古酒がない。自分でも貯蔵した古酒がないというのは、寂しい」「俺の押し入にある奴は、もうやがて十年になる」という会話の中から見いだしたものだが、泡盛を貯える人が多くなればなるほど、その感は強くなっている。
 
 泡盛を貯えている人といない人では、楽しみ方や会話が、まるで違ってくる。
「君の泡盛はまだ五年か。俺のはもう十二年になった。あいつの古酒はまろやかになっているらしいから、風味させてもらおう」という飲み助の話から、「どこそこの窯の壺に入れると良くなる」「琉球ガラスに入れて、毎日眺めるのもオツだ」「○○焼きの壺は、焼きしめられていないから貯蔵するのには向かない」という風に話が広がり、“貯える”という行為自体で、沖縄の文化論や県産品の実状などを語り合うことになるから、不思議である。

 那覇市内のある古老の姿が、今でも鮮やかに残り、忘れられない。私の尊敬する泡盛仲間で居酒屋を経営している先輩に連れられて訪ねたところが山下町。古老のベッドのまわりには戦前の瓶屋のカメが十数個も並べられており、晩酌用に飲(や)るというこのゼイタク。「隠れ武士が居(う)んどぉ」という先輩の言葉通り、開いた口が塞がらず、ショックを受けた。

 壺から一合取り出したら、別の新しいものが入っている壺から、取り出した分だけ継ぎ足す。壺の泡盛が少なくなったときのために、物置に数十本の一升ビンが用意され、移し替えられる。たんたんとした中に、しかも凛(りん)としていた古老の風情に、終始圧倒されながら風味したあの古酒を、今でも忘れることができない。

 最近知ったことだが、その古老はお亡くなりになり、古酒は散逸。名酒を育てた戦前の素朴な壺もどこに行ったのか判らないという。寂しい限りである。

 わが故郷には、今でもそんな 隠れ武士 がいるはずであり、そのような人たちを捜し求めて巡り会い、語り合うことがどんなに大切なことか。沖縄の良さやしぶとさが求められている復帰二十周年という時期に、ヒシヒシと感じさせられている。

 泡盛は、飲むばかりではなく、貯えるものである。貯える歳月の中で泡盛は熟成し、自分自身もまた、熟成するものである。沖縄の全家庭に、貯えられた数十年ものの古酒が並ぶとき、床の間の三味線が琉球の美しい風を象徴したように、沖縄は大きな琉球の顔をして歩いているに違いない。

 

第6話 泡盛が醸す至福

 肉料理が多い沖縄にとって、泡盛は欠かすことができない重宝なものである。味を整え、香りを添えるものとして、母から娘へ、各家庭の隠し味として伝えられている。

 琉球料理の中でも、泡盛と共になければその存在がないとまで指摘できる至高の食品は、豆腐ようである。豆腐ようについて、その道の第一人者である尚順は、「豆腐ようは数ある豆腐料理の中でもその頂点に位置するもので、世界三大珍味に数えられるものである」と、その遺稿集の中で語っている。

 山原出身の私にとって豆腐ようは青年期まで縁がなく、その存在さえ知らなかったが、泡盛に親しみ、尚順の遺稿に出会ってから豆腐よう捜しが始まった。那覇市内の料理店や料亭、、個人宅と食べ歩き キチガイ とまで言われるようになったが、その中でも「松乃下」、那覇市内の外科医宅のものは、絶品であった。つま楊枝へののり方、舌ざわり、香り共に素晴らしく、故郷にこのようなあ食品があることを誇りに思うと同時に、いかに自分がふるさとを知らずに過ごしてきたのかとガク然としたことを、今でも鮮やかなショックとして思い出す。豆腐ようにまつわるさまざまな話の中でも、「若い人が作るより、子育てを終わった女性が作ったものが良い」という話には今でも興味を引きつけられており、その深い意味は解明できないままであるが、幸いなことに飲み仲間に豆腐よう作りを始めている人がおり、そろそろ師範の域に達しそうである。このような仲間たちとの談笑の中から、そう遠くない時期にその意味は説き明かされると思うが、肝心な点は ゆとりと余裕 がないとダメなのだそうだ。良い豆腐の選択、乾燥のさせ方、麹の育て方。つけ汁に使う泡盛の善し悪しなど、どれ一つおろそかにできないという。時間をかけて、第二の子育てと思うぐらいに手間をかけてやらないと、良いものは生まれないという。

 豆腐よう作りは、これまで一子相伝的に首里、那覇の各家庭に伝承され、門外不出的なものになっているが、沖縄の発展を考えるとき、この習わしは改められなければならない点であろう。 家庭で自家消費的に使う分にはいいが、人を集めて作り方を教えるのは困る というのが、おいしい豆腐よう作りを伝えてきた名門家庭の姿勢なのではないかと思うが、秘伝には一朝一夕に真似られるものではない。

 豆腐ようの良さは、各家庭のみその風味が違うように、作る人の個性が如実に出るところである。
絶品が生まれるかと思えば、豆腐ようと名づけることさえはばかれるものもある。真似られて、自分の領域が犯されてしまうのではないか?という危険はあるにはあるだろうが、「簡単な作りでは決していいものは生まれない」というもの、豆腐料理の頂点に位置する豆腐ようの特性であろう。このことを考慮に入れて、技術を伝承しているだれか門戸を開放し、第二の人生を歩み始めたシルバー時代の女性たちに夢の贈り物をして欲しいのである。

 五十代後半以上の一万所帯の女性たちが豆腐ようを作り、一万世帯の男性が古酒を造る。それぞれに愛着のある豆腐ようとクースを持ち寄り、全国の友人たちを招いて品評会をする。この新しい祭りの中に老いた僕がいて、気の合った仲間たちと豆腐ようとクースを賞味している。
“琉球の時代”の到来ーー、今も変わらない僕の夢である。

第7話 だれでも名酒が持てるクースモアイ

 十五年ものの古酒を五升壺で買えばいくらになるか?各銘柄、さまざまな値段になっているが、即、現金で買うと言うのは、一般庶民ではなかなか手の届くものではない。コツコツと貯金したお金を引き出して買うというのも勇気がいる。

 それでも手っ取り早く、「俺にも古酒がある!」と自慢しながら古酒仲間と語り合うためには、最低十年ものは持っていたい。そんな向きの人にお奨めしたいのが、クースモアイ(古酒模合)である。

 自分が座元になって泡盛の好きな仲間二十人を募り、月月集まるのである。掛け金は一万円。十二万円のうち二万円はモアイの飲食費に。残りの十万円でそれぞれの好きな古酒を買うのである。が、ここで幹事の十万円を渡してはいけない。その月に落とす人の好みの銘柄を聞いて、その古酒壺を持ってくるのである。これを酒甕にして、自分の夢を語ってもらったらどんなに楽しい模合になるか・・・。
「俺の結婚十周年に開ける」「娘が二十歳になったら一緒に飲(や)る!」「俺の喜寿のお祝いに一族で楽しみたい」と、その夢や想いは果てしなく続く語らいになるに違いない。

 泡盛好きの十二人の仲間が一年間に一本ずつ、十二本の古酒を持つ。それを三年続ければ、各家庭に三本の古酒が眠ることになる。こうなると少しずつ飲んでも差し支えない。飲んだ分だけ、二番手、三番手の古酒壺から仕次ぎをすれば良い。珍客や大事な友が来たときに、このような楽しい手間をかけた古酒を飲る。こんな家庭を連想すると、たまらなくうれしくなる。

 ところが、古酒を持っていない人や泡盛の嫌いな人のとっては、「たかが酒に十万円もかけられるか。そんな金はない」と馬鹿にされそうである。しかし、そういう人であっても、古酒を持っていたほうが得になるのである。

 泡盛を二十数年、せっせと貯えたある人が、東京池袋の某デパートで十八年ものの一升ビンに入った古酒をオークションに出した。そのときについた値は、何と十八万円なのである。

 たかが千円前後の泡盛を十八年寝かせただけである。そう考えるとき、十万円で購入した古酒は、二十年寝かせたら・・・・。

 これは、蒸留酒が持つ個性と言って良いだろう。お金を貯えれば利子がつくのと同じように、土地を買えば時間と共に付加価値がつくように・・・。

 泡盛の場合は、「単に酒質が良くなるというだけではなく、貯えた人の気持ちと貯えてきた物語とが付加されて、文化という計り知れない価値を生み出すものになる」と言って良いだろう。

 古酒を持つ動機は、「子孫に残したい」「お金をもうけたい」「自分が老いた時に飲りたい」とさまざまだが、肝心なのは、より多量の質の良い古酒が沖縄に眠っていることなのである。わが家のクースを作りたいと思う人がいたら、クースムエーを起こしてみたらいかがだろう。

 時間は、決して追いつけるものではない。早く古酒を造った者が勝ちなのである。
 とまれ、このモアイを起こしたという人は聞いたことがない。まろやかな風はみなで作るものであるが、それを夢見たい一人のキチガイから始まるということを肝に銘じたい。

第8話 泡盛に賭けた三人の男たち

復帰間近の二十数年前。泡盛に賭けた三人の男たちが、安里の うりずん に集まった。一人は新聞を発行しながら泡盛の復権を夢見た醸界飲料新聞の仲村編集長。他の一人は、泡盛の流通を通じて販路を広げ、日本の名酒の地位を獲得したいと願った首里物産の宇根底社長。もう一人が泡盛居酒屋の草分け的存在である うりずん のマスター、土屋實幸氏。

 二十数年前のことである。居酒屋は閑古鳥が鳴き、泡盛は売れず、ましてや泡盛のことを特集した新聞など関心を持つ人が少ない。そんな中で三氏は、それぞれに励まし合いながら、泡盛の夢を語り、しぶとく時間をかけることを誓い合ったという。

 琉球新聞の記者を辞めて業界紙を創刊した仲村編集長の場合、「 島グワー と呼ばれている泡盛を、東アジアの名酒に!」という理想とは裏腹に、泡盛業界だけでは新聞は維持できない。オリオンビールやジョニーウォーカーの助けを借りて新聞の発行を続けたそうである。醸界から広告を取って、記事を書き、一軒一軒新聞を配って歩く日々。ある所ではこじき呼ばわりされ、追い出されることも一度や二度ではなかったという。

 高尚な理想とは裏腹に、頼みとする泡盛業界も有り難迷惑という空気で、家族には苦労を強いたという。

 「メーカーでもない市井の個人が、なぜ家族に苦労までかけてこんな冒険をしたのですか?」このような問いに対して、「君!泡盛は沖縄の心だよ。島グワー呼ばわりされて、黙っているわけにはいかないョ。」

 仲村編集長の醸界飲料新聞。今は巻頭にカラーの広告が掲載され、泡盛隆盛の感じを深くしている。二十数年かけた一個人の歩み。頭が下がる思いであるが、氏にしてみれば、まだ道のりは長いと言う。

…………………………………………………………………………………………………
 仲村編集長と共に、泡盛一筋にその販売を手がけてきた首里物産の宇根底社長は、二十年後の今を見越して、古酒を育ててきた第一人者である。氏によれば、メーカーから購入して販売しても売れ残る。しかたがないから、残ったものを床下に入れておいたのが、現在の大量の古酒になったと謙そんしているが、直感的に、無理して売らなくても困ることはない、と察知していたはずである。氏の口癖は、「一升ビンを保存する場合には、何も暗い所で温度が一定でなくても良い。少しぐらいは太陽に当たっても問題はない。暑い所を好んで育てるのが黒麹なのだから、多少の暑さはものとしないで古酒になる」と。非常に気楽で良い話で、古酒造りはだれでも簡単にできることを示唆している。同一メーカーの同じ銘柄の新酒を、湿度変化の少ない所で寝かせた場合と、外温にさらされた所で保存したものとが、十年経ったらどうなっているか?どちらの味が良いのか、まだそんな経験さえ、わが県にはないのである。二十数年、一升ビンの古酒を育ててきた氏の指摘だけに含蓄がある。

 泡盛を育てて終始一貫というのが うりずん の土屋氏であろう。貯蔵する器にこだわり、カラカラやグラスを吟味し、泡盛に合う酒肴を求め続けた二十数年。幾千人の人が、氏の やさしさ に出会い、触発され、自分の根っこを見つけ、勇気をふるいたたされてきたか。氏の歩みは、泡盛・琉球復帰の歩みと共にあり、氏の夢である新しいクース村の誕生を切に願う。
…………………………………………………………………………………………………
 
三氏がそれぞれに歩んできた二十数年の、それぞれの泡盛の道によって、泡盛が復権する流れができたと信ずる一人である。
たとえ今は追いつけないように思える 絶対的 なすごいものであっても、時間をかけさえすれば、必ず肩は並べられるし、むしろすごい沖縄独特のものができる。

 そんなことを、三氏の歩みは示しているように思える。

 たとえ今は遅れているように見えても、自分の良いものを見極める余裕も持ちながら、しぶとく時間をかけて、古酒のように歩みたいものである。

第9話 一升ビンでも古酒はできる

 一升ビンでも古酒はできる。この話を確信させた人がいる。
泡盛がまだ 島グワー と呼ばれ、舶来ウイスキーの影に隠れていた時代から、泡盛の販売を続けてきた首里物産の宇根底社長である。
氏から結婚式のお礼だとしていただいた七年ものの一升ビン。氏の床下に貯蔵されていたものだが、さすがに一味違う。三〇度ものとあってか、飲みやすくまろやかなので、その道の 通  氏におすそ分けをした。「友人と二人でやったが、ペロッとなくなったョ。ブランデーも真青だ」との返事。絶品だった。

 以来、商品棚にある古いラベルの一升ビンや倉庫で売れ残ったものについては、できるだけ購入することにしている。中には期待はずれのものもあるにはあるが、総じてウマイものが多い。値段も普通の一升ビンと同じというのもうれしい。
…………………………………………………………………………………………………

過日、甥たちと議論になったことがある。「一升ビンでは古酒にならない。壺でないと駄目だ」と言うのである。

 たまたま旧正月である。旧正月には古酒を賞味する件(くだん)の宇根底社長のこと。氏宅に甥たちを連行して、五年から十五年ものの一升ビンに入った古酒を賞味させてもらった。十数種類の古酒を飲ませてもらった甥たちの表情が一変した。「こんなに素晴らしいものになるんですか」と。
百聞は・・・で一件落着したが、まだわが県には、ビンでは熟成しないと信じている人が多い。これは、十年経った一升ビンの古酒を賞味するチャンスに恵まれた人達が少ないからだと思う。
…………………………………………………………………………………………………
 壺、ビン、磁器であろうと、泡盛は熟成し古酒になる。ただ、その熟成の仕方が違うのである。壺の場合は、泡盛と壺の成分とが相互に作用氏融合して独特の風味を生じ、ビンや磁器は泡盛の個性を損なうことなく、清烈でピュアな古酒になる。
 どれが本物で伝統的なものかと問えば、壺にも優るものはない。しかし、壺に一長一短がある。焼きしめが不十分であれば土の臭いが染みだして、泡盛の香りを殺してしまう。それ故、良い古酒をつくるためには、壺の吟味も重要な要素になってくる。ある先輩は、骨董屋に依頼して数十万円の古壺を求めているがあ、なかなか手に入らないそうである。

 しかし今大切なことは、古酒造りを始めることである。それが、ビンや磁器に入っているものでもかまわない。壺の辺りはずれを考えれば、むしろ最初はビンで始めるほうが安心感がある。ビンの中で四ー五年古酒になるうちに、いい壺を捜し回れば良い。自分の家にスペースがあれば、ランダムに泡盛の一升ビンを求め、保存し、忘れておくとよい。

 泡盛を家に置いておくとすぐになくなってしまう僕の場合には、金武の鍾乳洞のクース蔵に一升ビンで寝かせてある。温度変化が少なく、しかも暗い所で風がある蔵。最高の条件を備えていることと、将来、古酒を楽しめる仲間たちが集っている蔵であることが、うれしさを倍加させる。

 いずれにしても、 一升ビン でも古酒は出来る。それを信じて、甥たちも始めている。

第10話 三回念を押された泡盛

 たまたま泡盛の取材で鹿児島県民芸館を訪れたときのことである。そこは高麗橋のたもと。明治維新の立て役者、西郷や大久保らを生んだ加治町にあり、館長は元南日本新聞社長の川越氏である。
 

沖縄の泡盛についてあまりにも僕が礼讃するものだから、氏から唐突な質問が出た。
「君!本当に泡盛はいい酒だと思うかね」「はい!そう思いますが・・・」「本当に君!そう思うのかね?」あれ、この人は僕を馬鹿にしているのかな?一回、そう思うと考えたら、それでいいはずだが・・・と思いながら、それでも怪訝(けげん)そうに、「はい、そう思います」と答えると、「本当に君、そう思うのかね」と、三回も念を押されてる。

少々腹立ちぎみに「はい!そう思います!」と答え、怒りを抑えていると、「それでは、君が泡盛の第一人者になりなさい!」ときた。ア然として口は開いたまま。あのショックは今でも忘れることができない。

そのような会話があった後で氏は、「いい酒を君に見せよう」よ、二階からオールドバーのビンを持ってこられた。「素晴らしいものだから一口飲んでごらん」ときた。ウイスキー以外のものかも知れない思い、期待しながら飲んだが、難の変哲もないパーそのものであった。
あの頃の僕たちにとって、パーは珍しいものではなく、日常的に口にしているものであったから、どうしてパーを持ってこられたのか、釈然としないものを感じた。
今思うに、舶来のウイスキーは高くて貴重で、焼酎とは段違いものである。当時の鹿児島の状況では、しごく当たり前の行動だったのである。

酒類の面から見ると、ふんだんに世界の逸品が勢揃いしているわが沖縄の場合は、有る意味ではラッキーと言わざるを得ない。知らず知らずに、世界一流品の酒類をかぎわける舌と臭覚を手にいれていると。

そのような感覚を持った県民の中で育つ泡盛も、当然、消費者から見放されないように酒質に磨きがかけられている。アメリカ占領時の副物産として、これは評価してもよいものの一つだと思う。

とまれ、三回も同じ質問をされ、三度 泡盛は良い と言った僕にとって 君が第一人者になりなさい という言葉は衝撃だった。こんな経験は一度もなかった。思うに、明治以来この方、多くの人材を輩出し続けている鹿児島の教育法は、このような方法をとったのではないか?

 夢を持ち、何をしたいかという若者に対して、三度同じ質問をして、第一人者感覚、プロ意識を植え続けていく作業は、半端じゃない。わが沖縄が心して学ぶべきものの一つではないかと思う。

 私はその中から沖縄の文化のコアを見つけ、ふるさとへの自信を深める手がかりを得たのだから面白い。

 今では、三度念を押すというこの方法は、僕のものになり、いろんな人たちにこの方法で迫っている。
(最終回)