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| 年1回の収穫 | ||||||||||||
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ボルネオは昔から米を主食としている。高地,低地に関係なく,水を確保できる所では水稲を栽培するし,水の確保が難しい所や,山の斜面では陸稲を栽培している。全体としては水稲が多く,特にサバや南カリマンタンでは水稲が圧倒的に多い。村の人に尋ねたら,「水稲のほうがおいしい」と答えたが,東カリマンタンは,インドネシア27州のうち,唯一,陸稲が水稲を上回る州である。 私が教員をしていた当時,八重山では米の2期作が普通であった。最初の収穫は6月。豊作の年は,刈り取った稲を,誇らしげに土手からバス通りに積み上げていた。旧暦の6月には豊年祭がある。 その後,ふたたび耕して,9月末か10月には田植え。2度目の収穫は3月頃であった。 ボルネオは,気候的には米の3期作が可能である。しかし,実際は1年に1度しか作らない。肥料をやらない稲作であるから,土地がもたないのである。 水田では9月に種まきをして苗床を作り,半月ほどで田植え。翌年2月に収穫することが一番多い。普通,10月から雨季に入るからである。しかし,水が十分に確保できる場所では,多分,それぞれの農家の都合で,いつでも種まきをする。だから,水田では,苗床も田植えも,収穫も1度に見ることが出来る。広い湿原が,緑,黄色,土色とモザイク状になっている。 ダヤク諸族はすべて農耕民族である。島の北部や南カリマンタンでは,水田を作っているが,彼らのテリトリーの大部分では焼畑による陸稲の栽培で,その方法は大昔からほとんど変わっていない。 |
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| 第17 話 稲作 | ||||||||||||
| 過疎だから可能な焼畑 | ||||||||||||
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焼畑は,まず森林を切り開き,乾季も終わりに近い8月か9月に火を放ち整地する。火入れは2,3回行われ,大きな木を残してすべて灰にされる。畑は1家族平均1・である。 植付けは9月。もみの直播きが行われ,苗畑は作らない。まかれたもみは数日で発芽し,その後の生育はじきに来る雨季が約束してくれる。 収穫は翌年の3~5月。それまでに1,2度の草取り作業がある。収穫は穂を摘むだけなので,その後,再び花が咲き結実し,乾季の終わりには僅かながら2度目の収穫が望める。 整地から植付け,収穫までの大きな仕事は沖縄で言うユイマーレ(共同作業)で行われる。今日はだれの畑,明日はだれの畑と,約1ヶ月かけて各段階を済ませるのである。 肥料は使わないので,よほど肥えている土地でなければ2年連続の耕作はしない。収穫後は,10年から場所によっては40年も土地を休めさせる。このような農業であるから,広大な土地が必要だったわけである。 地力が十分に回復した森林は樹高20・に達し,高さだけでは原生林と変わらないが,樹型が整い木の種類が単純で,一見,植林地のようである。林内も人が手入れをしたかのように整っており,明るく,そして常に涼風が通って来る。 人間が住んでいる限り,手付かずの自然を残すことは不可能で,「共存」と言う名の妥協点が必要だ。その意味で,伝統的な焼畑農業は自然と人の共存と言えるかも知れない。しかし,それは絶対的に人口が少ないから可能なことなのである。例えば,東カリマンタン州ロングアパリ郡は人口密度1.4。すなわち1平方・・に1.4人しか住んでいないのである。理想にも思える伝統的な焼畑は,他島からの移民であふれ自由になる土地がない海岸線から中流域では,絶対不可能な農業なのである。 第18 話 |
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